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2017/04/23

イタリア偉人伝(ヴィヴァルディ)

これまで、何人もイタリアの偉人を紹介して来ましたが
この方を忘れていましたね

作曲家のヴィヴァルディです

1678年の3月4日に
イタリアのヴェネチアで誕生されています
ただ、瀕死の状態で産まれたので
誕生の時に行う洗礼が出来なかったそうです
そこで、仮の洗礼として助産婦さんが受けられたそうですが
二ヶ月後に家の前で無事にヴィヴァルディ本人が洗礼を受けたそうです

父親は理髪師として働いていたそうですが
バイオリンの腕もあったそうで
時々はバイオリンの演奏の仕事もされていたそうです

そんな父親の元に生まれたヴィヴァルディは
幼い頃からバイオリンを含めて
音楽を身近に感じながら成長して行ったそうです

ただ、将来の仕事としては
ヴィヴァルディは聖職者の道を選び
教会付属の学校に入学して
司祭にまで上り詰めたそうです

しかし、生まれてから身体が弱かったヴィヴァルディは
教会のミサの途中で咳き込む事がしばしばあって
司祭の仕事は辞めざるおえなかったそうです

その後
教会が運営する慈善院付属音楽院で
バイオリンの教師として働く様になりました

そこでは、作曲や合奏を教えていて
ヴィヴァルディ本人も作曲をして
作品集を出版したりもしたそうです

音楽院で教師の仕事をしていましたが
ヴィヴァルディの名声は
ヨーロッパ各地に広がって行ったそうです

名前がヨーロッパ中に広がった事で
ヨーロッパの色々な所から
作曲の依頼などが舞い込みます

その依頼を受けたり
ヨーロッパ各都市を巡ったり
オペラの公演を行ったりと
精力的に働いていたそうですが
付属音楽院の仕事も
年に数回になってしまいましたが
ちゃんとやっていたそうです

1740年、62歳の時に
オーストリアのウィーンでオペラ公演の話が舞い込み
ヴィヴァルディはウィーンへと旅立ちます

いざ、ウィーンでオペラを公演するとなった時に
ローマ皇帝のカール6世が死去してしまい
オーストリア国内は1年間の喪に服す事になり
予定していた公演が上演できなくなりました

当時のオペラは
興行主が全部の予算を支払う事になっていたそうで
ヴィヴァルディはかなりの負債を抱え込んだそうです

さらに、翌年の1741年には
体調を崩してしまい
故郷のヴェネチアに帰る事も出来ずに
ウィーンの作曲者用の宿舎で
亡くなってしまいました

ヨーロッパ各地で公演されていた
ヴィヴァルディの曲ですが
亡くなると次第に忘れ去られて行ったそうです

改めて、評価が見直されたのは
20世紀に入ってからだそうです

ヴィヴァルディの作品ですが
協奏曲が500以上
オペラが52曲(本人は94曲と記しているそうです)
73のソナタなど
その他にも多くの作品を作曲されていたそうです

最後に、ヴィヴァルディといえば
この曲ですよね(笑)

「Le quatro stagioni」(レ・クワトロ。スタジョーニ)
「La primavera」(ラ・プリマヴェーラ)
「四季」より「春」です




2 件のコメント:

  1. なんというか、偉大な方というのは、
    健康上に問題があったり、生い立ちが不幸だったりと、
    人生そのものがドラマになりそうな方が多いですよね~。

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    1. 心姫さん
      やっぱり、人生がそのまま曲とかに現れるんでしょうかね?
      でも、ヴィヴァルディは生きている時も
      ある程度の名声を手に入れていたので良かったと思いますよ
      偉大な人の中には亡くなってから有名になった人も多いですもんね

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