今回紹介するのは
「ジュゼッペ・ヴェルディ」です
ヴェルディは19世紀を代表する作曲家で
イタリアオペラに関して革命を起こして
オペラ界では
ヴェルディは
1813年の10月10日にパルマ公国で生まれます
パルマ公国は
現在の北イタリアのエミリアロマーニャ州
要するにパルマ近郊ですね(笑)
ただし、
当時はフランス領になっていた事と
生まれた事を示す書類に
父親は洗礼名のラテン語で役員に伝えた所
役員は、勘違いをして
フランス語で名前を書いた事から
フランス市民として登録されたそうです
ヴェルディは
幼い頃から音楽に興味があって
近くの教会のパイプオルガンの演奏を
頻繁に聴きに行っていたそうです
8歳の頃に
両親が中古のスピネットを買ってあげると
演奏に夢中になって一日中弾いていたそうです
ヴェルディの音楽の腕はドンドンと上達して行き
幼い頃に通っていた教会のオルガン弾きは
自分のオルガンの腕より
ヴェルディの方が上になった
と言って
ヴェルディに教会のパイプオルガンを弾かせる様になったそうです
18歳になると
ミラノの音楽院に入る試験を受けますが
なんと!
試験に不合格でした
仕方なく、ヴェルディは音楽教師から個人指導を受ける事になります
ただ、
その間もミラノのスカラ座等に通って
個人指導以外にも勉強を欠かさなかったみたいです
しかし、その後
生まれ故郷に戻り
音楽関係の仕事はしますが
結婚をして子供が生まれて
オペラ界から一時離れる事になります
ミラノに戻ったのは
1839年頃、ヴェルディが26歳頃ですね
理由は、自分の音楽への追求って事もありますが
長女が亡くなって
妻のマルゲリータも
長男を出産した後、体調が悪くなり
そんな生活を変えたいという事で
ミラノに行く決心をしたみたいです
ミラノでの最初の仕事として
処女作の「オベルト」というオペラを
スカラ座で公演する事になりました
すると、
オベルトは高評価を受けて
1回だけの公演のはずが
14回も上演されて
他の街でも公演の依頼があったそうです
ただし、
この成功の裏にも不幸がありました
最初の公演の時に
主演が体調不良で公演中止
改めて上演しようとすると
今度は、ヴェルディの長男が
長女と同じ様に高熱を出して亡くなってしまいます
ヴェルディは、長男の死を我慢というか
胸に秘めて公演の準備をして
そして、最初の公演を成功させ
その後の大成功に繋がったそうです
不幸もありましたが
処女作の公演の大成功で
これからは妻と楽な生活が送れる
と思ったヴェルディでしたが
さらに不幸が襲います
妻のマルゲリータが脳炎にかかり亡くなります
全てを失ったヴェルディは
音楽界から引退しようと思いますが
あるオペラの台本を見せられて
その中のセリフの
「行け我が思いよ、黄金の翼に乗って」
って一文を見て創作意欲が湧いて来たそうです
そうして出来たオペラが
「ナブッコ」でした
このナブッコでヴェルディは
さらなる名声を手に入れたそうです
と、こんな感じで
名声を手に入れたヴェルディは
さらに、多くのオペラの作曲をしていくんですが
波乱万丈のヴェルディの人生はまだまだ続きます
話が長くなったので
続きは、また次回紹介したいと思います
名声を手に入れたヴェルディは
さらに、多くのオペラの作曲をしていくんですが
波乱万丈のヴェルディの人生はまだまだ続きます
話が長くなったので
続きは、また次回紹介したいと思います
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2 件のコメント:
ジュゼッペという名前から、先日紹介されたピノッキオを連想してしまいました。
結構ありふれた名前なのかしらね?
それにしても多くの悲劇が彼を襲ったんですね。
続きがあるということは、まださらに悲劇は続くのかしら?
音楽がとても見事です!
まさに悲劇を胸に秘めていての作品ならでしょうか?
困難を乗り越えることで芸術家は作品に重みを加えるのかもしれませんね。
小町さん
イタリアではありふれた名前だと思います
聖書とかから名前を取るので似た名前が多いんですよね(笑)
まだ、ここまでは20代前半くらいなので
ヴェルディの人生はまだまだ続きますよ(笑)
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